箕輪城(みのわじょう)

別名
創建年と創建者 1505年頃、長野業尚
形式 丘城

長野氏の居城であるが、結城合戦の折に西上野の国人衆として山内上杉に加勢したのが史料における長野氏の初見という。当初は浜川に居たが、1505年頃には長野業尚による箕輪の城を築いている。河越夜戦で山内上杉は凋落し、長野業正の長子吉業も深手を負いそれが元で死去。上杉憲政が越後に落ち延びた後、西上野を束ねていたのは長野業正であった。が、武田信玄の切り崩しにあい、形成は悪化していった。上杉政虎小田原城を包囲したりもしたが、その頃には嗣子業盛の時代となっていた。成田長泰の辱めの件もあり、関東諸将の心は政虎から離れていった。

1566(永禄9)年、信玄は2万の兵で西上野に攻めてきた。業盛は籠城策を採ったが、主兵が少なく城は落ちた。武田信玄は真田幸隆・昌幸父子に城の改修を命じている。その後、内藤昌豊を城におき、嘗ての長野氏の部下を召し抱えた。小田原の役の後は井伊直政が入城しているが、高崎へ移転した。このときに箕輪城は改修されており、現在の遺構は井伊氏時代の物とされる。が、長野氏時代の縄張りの最終形態と考えられている。