三木城(みきじょう)

別名 釜山城・別所城
創建年と創建者 1488年前後、別所則治
形式 丘城

三木は有馬温泉~京都、有馬~姫路を結ぶ路に近く街道の要所だった。

別所則治による築城とされる。別所則治の登場は突然で、山名氏に敗れ信望を落とした守護赤松政則を足利義政に家督を安堵させ播磨に再度入る芸当をやってのけている。政則の家督を廃した浦上則宗同等の力を付け、赤丸政則は留守居に別所則治・小寺祐職を任じるほど実力が認められている。

別所三代の村治は赤松義村と浦上村宗の内紛に巻き込まれる。細川高国と組んだ村宗に三木城を落とされるが、赤松政宗と細川晴元との連合により浦上宗村は敗死、村治は三木で勢力を伸ばす。尼子氏の侵略で赤松氏に代わって別所氏が力を発揮し、東播磨の地盤を更に固めていく。細川晴元に味方をしていたが三好長慶の力がすさまじく、三好麾下に入る。その後安治の時代には三好三人衆から織田信長につくようになった。

が、子・長治の時代の1578年毛利方につき三木城に籠もる。播磨に来ていた織田方の部将・羽柴秀吉への抵抗を明確にした。毛利の調略によるものであった。秀吉は徹底包囲を行い、三木城は陥落した。長治以下一族は自害した。三木城は姫路城の支城的の扱いとなったが、一国一城令で廃城となった。