伏見城(ふしみじょう)

別名 桃山城、指月城、木幡山城
創建年と創建者 1592年、豊臣秀吉
形式 山城

伏見は水運で京都と大坂を結ぶ要衝の地であった。文禄の役開戦後、秀吉は隠居所として伏見築城を計画、1594(文禄3)年には朝鮮使節引見のために朝鮮出兵のない大名に軍役を徴発し、拡張工事が行われている。が、指月に築かれたこの城は慶長の大地震によって東海、東北寄りの木幡山に城が再び築かれた。秀吉没後、遺言により当初は徳川家康がこの城で政務を執っていた。関ヶ原合戦の際には鳥居元忠が籠もるこの城が西軍に攻められ落城し、元忠は自害し伏見城は悉く焼失した。

関ヶ原合戦後の1601年、家康は伏見城再建にとりかかり、将軍宣下は伏見城でうけている。しばらくは二条城が儀典用、伏見城が居館用として運用されたが、1623年の家光の将軍宣下を最後に淀城へ建物と機能が移されていった。城跡には桃の木が植えられ、それ以来桃山と称される。秀吉の居館だったことから「安土・桃山時代」と言われるのはそこからだが、秀吉の時代には桃山と呼ばれていたことは一度もない。

なお、大正初年(1912年)に明治天皇陵となったことから史跡指定は無い。復興天守は旧本丸でなく徳善丸に立てられている。が、耐震に難があり入城は出来ない。曲輪跡の遺構は比較的よく残っている。