二条城(にじょうじょう)

別名
創建年と創建者 1569年、1602年、足利義昭、徳川家康
形式 平城

足利義輝が築いた近衛御所跡に織田信長足利義昭の居館として築城したものが最初とされる。三好三人衆による本圀寺襲撃を受け、京都に城が必要と信長は考えた。1569年に突貫工事で築城され、2ヶ月でほぼ完成している。ルイスフロイスの書翰によると、石仏を徴発・破却し石垣としたことが記載されており、1974(昭和49)年の京都地下鉄烏丸線建設の時に石垣が発掘されそのことが本当と証明された。

室町幕府滅亡と共に二条城はいったん荒涼するが、安土築城の頃には解体の上誠仁親王御所としてあらたに作られている。その後、豊臣秀吉の時代にも二条城と呼ばれる居館は存在していたようである。

1601年、徳川家康は京都での居館として町屋立ち退きの手配を開始し、京都所司代板倉勝重の手配の元二条城が造営された。これが現在まで残る二条城である。大坂の陣の時は家康・秀忠が当城に駐屯した。天守は伏見城より移建したという伝承もあり、将軍上洛があったころには居館として活躍した。しかし、将軍上洛は家光を最後に途絶え、1750年落雷で焼失した天守も再建はされなかった。幕末、14代将軍家茂の上洛の際に駐在することになり、殿舎の整備が行われた。徳川慶喜が将軍宣下を受けたのは二条城であり、大政奉還は二の丸御殿にて諸大名の代表に宣言された。その後朝廷が接収し、しばらくは京都府府庁として利用されたが、その後宮内庁に移管され、大正天皇の即位の礼が行われたりしている。二条離宮と称されていたが、1939(昭和14)年京都府に移管され現在に至っている。

二の丸御殿は現存唯一の城郭内邸宅であり、大政奉還の舞台となった建物でもあることから実は大変貴重な建物である。現存12天守、天守閣ばかりありがたがる風潮が城好き界隈にはあるが、立派な石垣と縄張り・歴史的建造物があり誰もが楽しめる史跡である。また、二条城近くにはローソン・セブンイレブン・ローソンと3件連続密集している地帯があり、一部の城好きの間で話題となっていた。