二本松城(にほんまつじょう)

別名 霞ヶ城、白旗城
創建年と創建者 1414年、畠山満泰
形式 平山城

中世から明治維新まで城の縄張りが変わらなかった珍しい城である。U方城郭、馬蹄形城郭と言われる縄張りで、鎌倉・京都のような3方に累のある城であった。周囲の山々とその谷間全域を城としており、谷間の入り口に土塁と堀が築かれている。山々の稜線に沿って郭や城門が並んでいる。

室町幕府開闢の頃、奥州探題として高師直推薦の畠山国氏と足利直義推薦の吉良貞家が奥州に派遣された。その後の直義の対立により畠山国氏とその父高国は戦死している。子・畠山国晃が本領を回復し、さらにその子畠山満泰により築城された。

畠山義継は伊達輝宗拉致の事件を起こしている。畠山氏の二本松城主時代はそこで終わった。

片倉小十郎、伊達成実、蒲生郷成、町野重仍、蒲生の城代、松下重綱、加藤明利と城主はめまぐるしく変動した。この間上杉氏統治時代に会津の支城となり、整備された。山裾の三の丸の存在が、中世城郭でありながら近世城郭に進化出来た要因となった。

1643(寛永20)年丹羽光重が入部、2年の準備期間を経て1646(天保3)年から6年をかけて築城工事を行った。丹羽氏は明治維新までこの地を統治した

戊辰戦争において三春藩を先導にした官軍が不意に二本松城に迫ってきた。藩首脳は馬蹄の各累に少ない兵力を配置しようとしたがとても足りず、少年兵に火縄銃を持たせて配置した。二本松少年兵として名が残る奮戦をしたが多くが戦死し二本松城は落城した。戦術ミスとされる。

江戸期の石垣が遺構として残る。平山城として城っぽさがあり、楽しい城跡だ。二本松の街を歩くと、和菓子店が多く目につく。商店の並びが古き昭和情緒を感じられる。