七尾城(ななおじょう)

別名 松尾城
創建年と創建者 、畠山氏
形式 山城

築城者ははっきりしない。が、『日本城郭体系』では能登へ下向済、麓で居館を構築し築城の必要性が高まっていることを条件に、畠山義総の頃と比定している。畠山義総は能登畠山氏の黄金期を築いた武将である。

義総死後は求心力が低下し、合議制が取られる。上杉謙信は越中確保・加賀征伐を見据え、後背の能登征伐を決意する。城を囲むが兵糧攻めを選択している。1576(天正4)年初頭にいったん越後へ帰っている。が、ここで城内に流行病が発生、幼主義春(春王丸とも)が死亡、遊佐続光も織田信長に通じていた長一族を悉く殺害し上杉勢に城を明け渡した。七尾城はこうして落城した。その後、前田利家の所領となり、利家は小丸山城へと移って七尾城は廃城となった。

城跡は広大で、本丸跡からは能登島が一望出来る。