鳥取城(とっとりじょう)

別名 久松城
創建年と創建者 1545年、山名誠通
形式 山城

1545(天文14)年の2月中旬頃、因幡守護の山名誠通が但馬守護の山名祐豊と争う中で、天神山城の出城ととして久松山に城を築いたのがはじまり。縄張りは老臣で歴戦の勇士である田原某。山名誠通は八上口に出陣するも天神山城が手薄となり、但馬山名氏に急襲され討死する。

その後武田豊前守が城主となり、次第に天神山城の守護代山名豊定・山名誠通の遺児と対立するようになる。鳥取城は補強された。武田豊前守死後も、子・高信が山名氏と激しく戦った。その後山中鹿之助が山名豊国を助けて高信を攻撃し、高信は鳥取城を退去、山名豊国の居城となった。

その後、織田と毛利の争いの戦場となった。当初は毛利方だった山名豊国だが、秀吉に降伏。が、因幡一国でなく二郡しか安堵されなかったことが不満な家臣は豊国を追放、吉川経家を招き入れ織田に対抗する。秀吉は事前に米を買い占めその後で鳥取城を包囲。城兵1500に対し2ヶ月分の兵糧しか無い状況で兵4000。人食まで行われた。経家は城を開城し切腹した。

宮部継潤の後、関ヶ原の戦い後は池田輝政の弟・池田長吉が城主となる。このとき手狭な城地を広げる改修を実施している。その後は池田光政が城主となり、岡山藩とのトレードで池田光仲が鳥取藩に入り明治維新まで続いた。1879(明治12)年、陸軍省の手で解体。