高槻城(たかつきじょう)

別名 久米路龍ヶ城
創建年と創建者 10世紀末、近藤忠範
形式 平城

10世紀末、近藤忠範が久米路山に居館を設けたのが最初とされる。その後、南北朝時代に駿河から入江氏が入り、近藤氏を継いだとされる。

1527年、薬師寺国守が高槻入江城が入ったことが文献の初見とされる。1569年に入江春継に代わり和田惟政が入城している。

その後和田惟政は戦死し、高山右近によって長く治められた。領地内にキリスト教が広められたのも高山氏の治世時代である。豊臣直轄領を経て新庄直頼が入るも関ヶ原で西軍につき改易、しばらくは幕府直轄領となった。大坂の陣の時は徳川方の補給基地として重要な役割を果たしている。大坂落城直後から譜代大名が4家5代にわたり入れ替わり入部している。京都と大坂の中間にあり水運も仕えるその立地から、重要視されるようになっていった。藩主は常に城の改修・城地拡大を行っている。

1874(明治7)年の鉄道敷設を機会に破却され、小学校開設や工兵隊駐屯で城跡は次々と開平されたが、市内各地には高槻城の遺構が地下に眠っている。中世高槻城についても、ルイスフロイス日本史に記録が残されている。