高遠城(たかとおじょう)

別名 兜山城、甲山城
創建年と創建者
形式 平山城

高遠城は鎌倉時代初期築城とか、中先代の乱で活用されたとか言われるが草創期ははっきりしない。戦国期の遺構もとくにはない。もともとは諏訪氏の分家が治め諏訪地方との繋がりが深く、諏訪氏の支配から武田家の配下となって以降城の整備が進んだ。織田信長の甲斐攻めのときは仁科盛信が籠もり1日で落ちたとは言え唯一の戦いらしい戦いが起こった。

その後徳川領となり、保科氏が入り、毛利、京極と遷り関ヶ原の戦い後再び保科氏の治めるところとなった。保科正之が城主だったこともある。その後鳥居氏、直轄領、内藤氏と変遷した。戦国を経て江戸時代も通じて藩庁が置かれた数少ない城である。

現代では桜の名所となっているが、これは明治8年頃から植えられたもの。本丸の標高は800m、南は三峰川が面し断崖となっており、その高低差80m。巧みな要害である。