墨俣城(すのまたじょう)

別名 一夜城
創建年と創建者 1866年、木下藤吉郎
形式 平城

戦国時代の墨俣の地は北は犀川、東は長良川をもって天然の外堀となっており、木曽川・犀川・五六川・糸貫川・天王寺側が長良川に合流する「州の股」であり、長良川対岸は織田領であり美濃攻略における重要拠点であった。

以下、太閤記のような創作に拠る話である。

稲葉山城攻略のための拠点として、稲葉山と大垣に挟まれたこの地に城を築くことを考えた。最初は佐久間信盛、次に柴田勝家に命じるがいずれも斎藤軍の攻撃で失敗した。木下藤吉郎が次に手がけることとなり、蜂須賀小六の支援を仰ぎ、あらかじめ東尾張で用材手配を行い、これを川を利用して運搬し、木柵を作り斎藤軍に備えつつ家屋を組み立てるというものであった。9月1日筏を組み立て、5日には水路墨俣へ渡り、信長の巡視もあり7日8日には堀や兵が完成していたという。

と、太閤記の創作なのであるが、平成初期までは史実と思われており、数々の著書によって墨俣一夜城伝説はフルボッコに否定されている。が、時代はバブルの昭和、中世城郭でなく近世の天守閣が墨俣城には再建され、「豊臣秀吉が一夜で天守を築いたんだよ」のメルヘン派から、「墨俣城は虚構」派まで収集つかない状況となり今に至っている。墨俣の地は渡海拠点であり、同地付近に陣がしかれたことはあったようである。なお、河川改修もあり城地は半分となっている。