小倉城(こくらじょう)

別名 勝山城・勝野城・指月城・湧金城・鯉ノ城
創建年と創建者 1602年、細川忠興
形式 平城

小倉の地は古くから関門海峡を抑える要所であった。奈良時代から軍団が置かれていたことが740年の藤原広嗣の乱の時に記録されている。小倉に初めて城が築かれたのは文永年間に緒方大膳惟重が居城とした時であるが(『倉城大略誌』)、この城は今の小倉とは場所が違うという。大内教弘の頃、小倉の拠点化が始まり1570年には高橋鑑種が小倉を居城としている。この時の小倉城が今の小倉城の原型という。豊臣秀吉の九州征伐後、毛利勝信の城となったが関ヶ原の戦いで西軍につき黒田官兵衛に城を落とされる。小倉城は細川興元が入ったが出奔し、細川忠興が中津城から移ってきて本城となった。これは、筑前街道と豊後街道の接点に位置すること、筑前黒田家との対立上藩境警備が必要だったことからとされる。

細川家によって城は整備され、川の流れを巧みに利用した堅固な城が完成した。城には水門が要所要所に作られ、水門を開くと周囲を泥海に出来る構造となっていた。細川家が熊本へ移った後は譜代大名の小笠原家が入り、九州諸藩の押さえの任を負った。が、幕末に第二次長州征伐において毛利軍に落とされ城に火が放たれたことは特筆される。数少ない、江戸時代に落城を経験した城である。