清洲城(きよすじょう)

別名 清須城
創建年と創建者 1405年頃、斯波義重
形式 平城

室町幕府管領にして尾張守護の斯波義重が1405年頃築城した。清洲は鎌倉街道と伊勢街道の合流地点で、中山道ニモつながる交通の要衝だった。守護代織田氏が尾張の下4郡(海東・知多・海西・愛智)を勢力として清洲城で支配し清洲の反映は続いた。守護代の奉行の家柄の織田信秀が台頭し、その子織田信長によって守護代織田家は追われ清洲城は信長の支配となった。永禄年間以降清洲城は拡張を繰り返した。本能寺の変後は清州会議がこの城で行われた。織田家本城として特別な地位にある城であった。織田信雄が城主となり、豊臣秀次・福島正則・松平忠吉・徳川義直と城主は変わっていたが、徳川義直のときに天下普請で名古屋城が築かれ、清洲越しという根こそぎの城下町移転が行われた。清洲城は廃城となり城下は田畑に埋もれることとなった。清洲城小天守は戌亥櫓として移築されている。 1898年、清洲公園として城址が整備された。城址は東海道線で真っ二つになっているが、城北側の丘が城址とされている。模擬天守も隣接地に建てられた。清洲町が周辺市町村と合併するときには「清洲か清須か」を真剣に議論の上清須市となっている。