春日山城(かすがやまじょう)

別名 鉢ヶ峰城・春日山要害
創建年と創建者 不明、長尾高景
形式 山城

越後府中(直江津)から西南3500mに位置し、越後守護長尾氏が要害とし、守護代長尾氏が守った。春日神社の所在から春日山城となった。

南北朝期の正平年間(1346年~1370年)には府中確保の拠点として整備されていたと思われるが、文書の初見は1513(永正10)年である。長尾為景により戦国城郭として整備され、謙信の時代となり一層の普請が行われた。越後本国ではあったが、信濃を手に入れた武田信玄の越後侵攻もあるような情勢であり、整備強化は丹念に進められた。御館の乱では春日山城をいち早く抑えた上杉景勝が勝利している。上杉の会津移封後、堀秀治が入部している。堀氏は福島城を築いたが、春日山城にも手を加えている。上杉遺臣の一揆も起きており、根小屋地域を固めるために城にも手を加えたものとされる。1607(慶長12)年には廃城となっている。

城跡は60万平方メートルに及ぶ広大なものとなっている。文献の資料が少なく、直近40年弱にわたり発掘に期待されている。「御屋敷」と呼ばれる郭は発掘調査がなされ、井戸や礎石が出土した。山頂の主郭は謙信人気による登山者で表土が流れていたが、近年は袋の土を持って登る登山ボランティアにより修復がなされた。主郭からは日本海・頸城平野信越国境の山々が一望出来る。春日山城史跡広場としての監物堀復元にゃ春日山城ものがたり館の整備などが進んだ。