観音寺城(かんのんじじょう)

別名 佐々木城
創建年と創建者 1467~87年、佐々木六角氏
形式 山城

中山道を眼下に望み近江国全域を展望出来る自然の要害。

1335年頃佐々木氏(六角氏)が奥州から来た北畠顕家を迎え撃つために籠もったとされるが、当時は観音寺に籠もっただけであり、同地に城はなかったとされる。応仁の乱の折、京極氏への対抗上西軍・山名方に属した六角氏であったが、劣勢でもありしばしば観音寺に籠城し、ここで城郭としての体裁が整えられたと見られる。1487年には幕府軍の追討を六角氏は受けているが、このときは観音寺城を捨てて甲賀山中に逃げている。天文年間には足利義晴を観音寺城へ迎え入れているが、1527(大永7)年のときには長光寺に義晴を迎え入れている。天文2年頃まで観音寺城は改修を行っていたらしい。そこで居住性が高められ六角氏の本拠としての体裁が整えられたと考えられている。城跡の発掘調査では1560年代のものも多数発掘され、火縄銃対策も施され改修は常に行われていたようである。

織田信長の上洛時に活躍することも無く城は陥落、最後は安土城の附城として余生(?)を送っている。多くの郭が石垣で構成される、中世城郭としては特異な城である。