月山富田城(がっさんとだじょう)

別名 月山城、富田城
創建年と創建者 室町時代、
形式 山城

出雲国風土記によると、月山富田城は加豆比乃高社があったところだという。かつては船で中海から飯梨川を遡上し富田城下近くまで往来することも出来たといういう。正に出雲を治めるにあたっては要衝だった。

最初に居館を構えたのは平宗清・平景清・佐々木高綱・(弟の)佐々木義清と諸説がある。1163~1190年頃とされる。佐々木高綱の弟義清が出雲守護となり、4代目の頼泰のとき守護代が置かれるようになった。佐々木京極氏は一時山名氏に排除されたが、明徳の乱で復権、佐々木高顕が守護となったときに下向したのが尼子持久である。尼子氏は美保関港を掌握し経済基盤を固めた。守護京極氏から白眼視されたが、尼子経久の時に京極氏を抑え戦国大名となり、勢力基盤を因幡・播磨から石見・備後までに広げた。 尼子晴久が毛利氏を攻めるが敗退、これに乗じた大内氏が月山富田城を攻めてくるが打ち破った。が、大内家の内紛を収め勢力を急襲した毛利元就が攻めてくると、敗退、月山富田城は毛利領となった。関ヶ原の合戦後は堀尾吉晴が入った。が1611年松江城が完成しそちらへ移っていった。

城は山上の曲輪、中核の曲輪、谷の居館跡からなり、当初は月山の南側の塩谷に屋敷が設けられ、次第に山上に城が築かれ大きくなっていたと考えられる。石垣のある曲輪もあるが、毛利氏・堀尾氏の時代の創建のものもあり、尼子時代の城とは言いがたい面もある。「出雲十旗」「尼子十砦」といった支城群が整備され、富田の本城を守っていた。