小田原城(おだわらじょう)

別名
創建年と創建者 14世紀末頃、土肥氏?
形式 山城と平山城の複合

足柄平野の末端に小峰山があり、そこから谷津山、八幡山、天神山の3つの尾根を経て箱根新期外輪山に至る。小田原城は八幡山尾根に位置し、後北条氏時代に他の尾根へと拡大、江戸期には八幡山尾根に戻るといった推移を経ている。

足利持氏の時代、土肥氏によって築城されたという。小早川氏時代創設ではないとされている。上杉禅秀の乱により1417年、大森氏が城主となる。が、1495年北条早雲により小田原城は奪取される。早雲自身は韮山城に多く在城していたが、ここから日本初の総構えと言われる巨大城郭が形成されていった。

二の丸外郭は北条氏康の頃には出来ていたらしい。謙信(1561)や信玄(1569)が攻めてきて追い返すという小田原城レジェンドを作ったのは氏康の時代である。だが、城下は敵軍の侵害に任せる結果となっており、氏康は信玄襲来後、1569年11月に三の丸外郭建設を開始した。1573年に低地側の外郭は完成、1587(天正15)年には山地外郭も完成した。

小田原城に豊臣勢20万が来襲した1590年の春には大外郭が完成した。これにより城の中に町がある時代がついに到来するが、北条氏は7月に滅亡している。ここから大久保忠隣が改易されるまでが「総構え」の時代となる。大外郭の大きさは豊臣大坂城に匹敵し、中世の土の城でこれだけの大きさというのは城郭史で特筆される事項である。また、大改革思想は小田原の陣に参陣した諸大名に影響を与えた。大久保忠隣の改易で総構え・三の丸外郭は破却され、その後城代時代を経て、1632(寛永9)年の稲葉正勝入城から近世城郭化が施されることになった。しかし山地の八幡山付近は中世後北条氏時代の郭が温存され、貴重な遺構となっている。

小田原城は最後、大久保氏の家系が城主となったが、1870年廃城令よりも2年早く維持困難を理由に廃城願いが政府に出された。