岩屋城(いわやじょう)

別名
創建年と創建者 天文年間、高橋鑑種
形式 山城

大野城の東南に築かれた。宝満山城の支城として高橋鑑種が拠点化した。宝満山城と岩屋城で北筑前と南筑前を分断出来る。高橋鑑種は当初は大友傘下であったが、毛利へ離反。城は大友方に落とされ、鑑種は小倉城へ去った。吉弘鑑理の次男が高橋家を継ぎ、高橋紹運となった。

1586(天正14)年、島津軍5万・秋月と龍造寺を加えて10万の大軍が岩屋城を囲んだ。7月14日から総攻撃が開始され、半月後の27日、高橋紹運以下の763名が全員玉砕を遂げた。城兵は一人も逃亡しなかったという。

宝満山城を守っていた高橋統増は立花山城に退いている。が、立花統虎守る立花山城での決戦を目前に豊臣軍が九州上陸し、島津家の九州統一の野望は打ち砕かれたのである。

城は本丸付近が開けているのみだが、本丸跡に「嗚呼、壮絶岩屋城」の石碑が筑後柳河藩によって建てられている。