飯盛山城(いいもりやまじょう)

別名
創建年と創建者 建武年間、1560年、建武年間、三好長慶
形式 山城

北条氏与党佐々目憲法が築いたとされるが、紀伊飯盛山城ともされる。南北朝動乱期に南朝方の恩地左近太郎が着陣し細川頼之と戦ったという記述が『太平記』にあり、陣城として活用はされたことがあったようだ。

畠山家臣木沢長政が居城として飯盛山に城を築いており、1531年畠山義宣に謀反し細川晴元と組むと。義宣は飯盛山城を包囲するが破れ敗死、三好元長を堺に攻め滅す。が、1542年三好元長の子・長慶細川晴元が河内太平寺で戦い長政は戦死している。その後畠山高政の家臣安見直政が入城したが、争いを繰り返した後最後は組んで長慶に敵対したため高屋城・飯盛山城を落とし堺へ追放。こうして1560年三好長慶が入城。しばらくは三好家の本拠となる。高政は根来寺門徒衆を率いて攻めてきたが1562(永禄5)年打ち破っている。

芥川城で嫡子・義興が死に、安宅冬康を飯盛山城で暗殺してしまうと長慶は病没、その後織田信長の上洛の地に三好義継若江城へと移り、畠山昭高の所有となり遊佐信教が守ったが最後は信長に攻められ落城、廃城となった。

生駒山脈から延びる北河内地方特有の細い尾根のせいもあり、あまり郭の大きさが取れていないのが特徴で、付城の数も多かった。南方防備は弱く防御には課題もあったようだ。