稲葉山城(いなばやまじょう)

別名 岐阜城
創建年と創建者 1201年、二階堂行政
形式 標高336m、比高308m

1201年、鎌倉幕府政所執事・二階堂行政によって築城される。1412年土岐氏の守護代斎藤氏が居城としたが、1445年には加納城に移っている。土岐氏は川手城を居城としていた。その後、松波庄五郎なる浪人が土岐頼芸に近づき、兄・政頼を追い守護とし、1538年には守護代斎藤氏の名跡をつぎ稲葉山城を居城とした。その後、頼芸を追放して美濃の大名となったこの人こそ斎藤道三である。子・義龍に稲葉山城を譲るも義龍に誅され道三は死亡。義龍とその子龍興は、道三の娘婿・織田信長と争うこととなる。結局稲葉山城は織田信長の手によって墜ち、禅僧沢庵の助言もあり井ノ口の城下と共々岐阜城と改められた。岐阜の町には楽市令が出され賑わった。信長から嫡男・信忠にともに譲られている。織田家の本城として特別な地位にあった。本能寺の変後は織田信孝の居城となるが、賤ヶ岳の戦いで没落、池田恒興の所領となった。小田原の役後は、羽柴秀勝を経て信長の孫・織田秀信の居城となり、関ヶ原の戦い前哨戦では西軍との戦いが展開された。

戦後同地を拝した奥平信昌は加納城を居城とし、岐阜城は廃城となった。

ルイスフロイスの『日本史』に探訪したときの様子が描かれており、山頂の主城、四層の居館、驚くべき石壁が記されている。強固な山城であり、信長の時代には麓にも居館が展開された。