茨木城(いばらきじょう)

別名
創建年と創建者 15世紀初頭以前、茨木氏
形式 平城

楠木正成が築いたとも安富氏が築いたとも福富氏が築いたともされはっきりしない。

応仁の乱の時に安富元網に属した野田泰忠が茨木の城に陣を構えたとの記載がある。茨木氏も国人として荘園を侵食し勢力を張りつつあったが、細川政元が国人一揆征伐に乗り出し茨木城を囲んで茨木一族を自刃させている。城は薬師寺元忠に与えられたが、その後細川高国細川晴元の戦いで高国方となったが、山崎城が晴元方の柳本弾正の手に落ちそのまま晴元方に投降している。1548年に三好長慶細川晴元討伐のために召集した諸将の中に茨木氏の名前が見られる。この頃には茨木氏が茨木城に復権していたらしい。織田信長の上洛に当たっては信長に下りそのまま城は安堵。だが、三好三人衆と和田惟政の戦いで白井河原にて茨木兄弟は戦死し茨木氏は滅びている。

1577年中川清秀が茨木に入城。荒木村重謀反・本能寺の変と立ち回り茨木城主であったが、賤ヶ岳の戦いの戦死を機に1586(天正14)年子・秀政は三木へ移封となり、秀吉の直轄地となった。関ヶ原翌年に片桐且元が入ったとされるが、本領は大和のため弟貞親の支配だったとされる。片桐氏の豊臣との永訣後、大坂の陣を経て本領は大和となり、一国一城令で廃城。茨木城は田畑へ戻った。一部遺構は大和小泉・片桐家江戸屋敷・茨木神社へと移されたとされる。