安祥城(あんじょうじょう)

別名 森城
創建年と創建者 1440年、和田親平
形式 平城

足利一族の和田親平によって築城された。松平信光が1471年攻略してのち、松平清康岡崎城に移るまで松平氏の本拠地であった。三河武士の中心は「安祥譜代」と呼ばれる層で、家康の天下獲りの中核勢力となった。松平清康は東三河を平定し尾張に攻め入った。織田信秀との対決がここから始まった。松平清康は尾張・守山で家臣に誤殺されてしまう。松平広忠は伊勢に逃れるなど苦難を味わうこととなった。織田信秀は安祥城を激しく攻撃し、松平氏との死闘が繰り広げられた。『安城市史』によると天文9年織田方に落ちている。 松平氏は今川氏の救援を請い、人質として嫡子・竹千代を駿府へ送ろうとするが田原城の戸田康光により織田方に売られてしまう。このときはそれでも今川方についた松平広忠であったが、家臣に殺されてしまう。太原雪斎は直ちに岡崎へ駐屯し松平氏の織田方への流出を阻止、安祥城を二度にわたって攻撃し織田信広を捕虜として確保した。これにより竹千代との人質交換が行われた。その後桶狭間の戦いを経て清洲同盟が結ばれ、安祥城は廃城となった。

なお、本多忠勝の祖父・忠豊も父・忠高も安祥城をめぐる戦いで命を落としている。城跡は一部公園となっており、本多忠高の墓が建てられている。