明知城(あけちじょう)

別名 白鷺城
創建年と創建者 1247年、遠山景重
形式 山城

美濃可児郡に明智城(長山城)があるが、それとは別。岩村城第2代当主が築城したとされる。が、鎌倉時代は東美濃に戦乱がなく築城の動機には乏しく当時は居館程度だったと考えられる。建武の新政より先、土岐氏は南朝方、岩村遠山氏は南朝方だったのに対し、岩村明智氏は北朝方についた。この頃城郭が拡張されたと考えられる。

戦国時代遠山氏は武田信玄に従っていたが、岩村城主が死亡し織田方につく。秋山信友によって岩村城を攻略。遠山景行を合わせて破る上村合戦が行われた。景行は自刃し、明知城は落ちた。景行の嫡子景玄は討ち死にしたため、弟が還俗し利景となった。その後岩村城と共に織田方として回復するが、本能寺の変後徳川方に味方したために1583年森長可の攻撃により明知城は落ちてしまう。利景が明知城を回復するのは小牧長久手の戦いの時となる。このときも講和によって森忠政に返すこととなった。田丸領になったときに関ヶ原の戦いが起き、西軍の田丸氏を利景が攻撃し明知城を奪い、そこで1330石が安堵されている。一国一城令で明知城は廃城、麓の陣屋で明知遠山家は12代明治維新まで続いた。