「新暦換算」について

「新暦換算」の概要、使い方

第三版から新しく加わった項目として「新暦換算」があります。これは、旧暦・・・すなわち太陰太陽暦を現行暦である太陽暦のグレゴリオ暦に直したものです。ただし、旧暦での出来事が起こった月日が明らかでなければ、この項目の中は空になっています。
現行暦であるグレゴリオ暦を記すことによって、以下のような利点が生じます。

  • その出来事が起こった季節が分かり易くなり、「あ、この合戦は梅雨時だったのだな」「この武将が生まれたときは冬だったのか」などと、新たな発見を見つけることが出来ます。
  • 今までであればその出来事が起こった日、例えば6月2日になると、「およそ390年前には本能寺の変があったのだな」と思いますが、事実として、旧暦と現行暦には随分な差があります。そこで、この年表の本能寺の変の項目、「新暦換算」をみて、「今日は7月1日、ああ、いまから390年前の今日この日に本能寺の変があったのだな」と、戦国時代への思いを馳せる行為が更に面白くなります。

注意1・・・2種類ある戦国時代の西洋暦

戦国時代に日本にいた宣教師の書簡の日付などとこの「新暦換算」は違う場合があります、というよりまず違うでしょう。その原因は、戦国時代も最中、1582年に暦が少しだけ変わったからです。

B.C. 46 ユリウス=カエサル(ジュリアス=シーザー)によってユリウス暦が制定される
A.D.1582 グレゴリウス13世により、グレゴリオ暦が採用され、今日まで続く。
A.D.1872 日本において明治政府の手により、グレゴリオ暦が採用される

ユリウス暦は今の太陽暦とあまり変わりません。4年に1回は閏年という点も同じです。しかし、この暦だと、400年につき春分に日が3日早くなることが判明したのです。そこで、16世紀に400年に3回は閏年を省くことにしたのです。つまり、今までは西暦の年数が4で割れる年をそのまま閏年として、2月を1日増やし29日としていたのをこの暦採用からは、下2桁が00の年のうち、上2桁が4で割れない年は閏年でなくなったのです。これが今日まで続く「グレゴリオ暦」です。それを採用したのは、戦国史では抜かすことが出来ない大切な年である1582年です。グレゴリウス13世はユリウス暦1582年10月5日をグレゴリオ暦1582年10月15日とすると定めた訳です。ちなみに、1582年10月5日は日本の暦だと天正10年9月19日になります。西洋の暦では1582年の10月6日~10月14日はありません。 これにより、3000年に一日誤差が出る、というところまで改善されたのです。この時、日本にいた宣教師はまだその事を本国より知らされていなかったので、10日の差が生ずることとなるのです。

日本では、世界でも中国と並んで太陰太陽暦を磨き上げずっと使ってきた国です。しかし、明治政府が諸外国との折衝上の~などの理由で、西洋暦を採用することに決めたのです。それで

明治5年12月3日を明治6年1月1日とする

と政府が決めたのです。ちなみに、明治5年は1872年です。

注意2・・・旧暦の年の瀬は西洋暦ではもう来年、と言う話

つまり、旧暦の12月は既に新暦だと年が明けている、ということです。それにともない、当「完全戦国年表」をはじめ、多くの歴史書・歴史教科書などには、旧暦(例えば、三方が原の戦いの日・元亀三年12月23日)に、便宜的に西歴をつけていますが(たとえば、1572[元亀三]年12月23日)、実際にはその年の暮れだった場合、本当の西暦と便宜的につけられた西暦には一年の差があるということです(三方が原の例で行けば、合戦は1573年2月5日に行われている)。