蓮如(れんにょ)

生没年 1415.2.25~1499.3.25正午
名前 布袋、幸亭、兼寿、信証院
官位

本願寺存如の子。本願寺派は真宗高田派・仏光寺派に比べ衰微していた。が、本願寺住職となった蓮如は御文(御文書)と呼ばれる手紙を活用、村落の指導者にターゲットを絞る効果的な布教を行った。通仏教的な念仏信仰を上手く吸収し、信者は飛躍的に増加した。が、これに刺激を受けた延暦寺衆徒の襲撃を受け、堅田、大津、次いで越前吉崎へと移っている。その後山城山科に本願寺を再興した。1497年に石山に別院を建設している。

北陸の門徒拡大は急激で、当初は1476年富樫政親に追われ河内・摂津・紀伊での布教に専念したこともあるが、加賀一向一揆は富樫政親を滅ぼしてしまっている。27人の子女(13男14女。5人と結婚死別を繰り返している)は当初困窮原因の最たるところとなったが、各地に配され教団拡大に寄与した。