結城 秀康(ゆうき・ひでやす)

生没年 1574.2.8~1607.閏4.8
名前 義伊、於義丸、結城秀朝
官位 三河守、侍従、左近衛権少将、参議、権中納言

徳川家康の次男。母はお万の方。当初はなかなか家康から実子と認知されなかった。本多重次に養育される。家康との対面を取り計らったは兄・信康という。

小牧長久手の戦いの講和に際し、秀吉の養子となる。実質は人質だが、存命最年長男子を出してくれたと秀吉は喜んでいたようである。元服し秀吉家康から偏諱を受け、秀康と名乗る。九州攻めで初陣。天正18年結城晴朝の養子となり、下総10.1万石を相続する。朝鮮出兵では秀吉に従い名護屋に駐屯する。関ヶ原の戦いでは会津上杉の西上対策として宇都宮に残った。

関ヶ原の戦い後、越前75万石に封じられる。1606年に五男直基を結城晴朝の後嗣として結城姓継承を図った。1607年唐瘡にて病死。