毛利 輝元(もうり・てるもと)

生没年 1553.1.22~1625.4.27
名前 幸鶴丸、少輔太郎、宗瑞、幻庵
官位 右衛門督、右馬頭、参議、権中納言

毛利隆元の長男。1563年父の死を受け家督相続、祖父・元就の後見、のちに叔父吉川元春小早川隆景の補佐を受け当主を務める。元就死後、出雲の尼子残党・備中浦上氏と退治するが、播磨で織田勢と対立することになる。備後・鞆で保護した足利義昭を中心に、石山本願寺・別所氏、荒木村重と上杉勢あわせ信長包囲網第2弾を形成するも織田勢に括弧突破されはじめる。備中の宇喜多直家が織田勢に寝返り、形勢は悪化。備中高松城の水攻めを受け、織田軍との全面戦争で毛利家は危機的状況を迎えた。

が、本能寺の変が発生。羽柴軍を追撃しないという選択を採った毛利家は、元就遺言の「天下は狙うな」をようやく実現出来る余地が出来る。豊臣家に臣従した後は、四国征伐・九州征伐で重きをなした。1589(天正17)年には広島築城を開始し、吉田郡山城から本拠を移す。今の100万都市となる広島の始祖となったわけだ。五大老に任じられ(叔父・小早川隆景も任じられている)、豊臣政権では盤石の立場にあった。

が、関ヶ原の戦いでは安国寺恵瓊と吉川元家の意見統一を果たせず、結果として毛利輝元は西軍の総大将格に祭り上げられる。関ヶ原本戦での敗戦後、大坂城をほいほい徳川方に明け渡したのは良いが、所領は周防・長門の2カ国に削減される。外交立ち回りで大失敗となり、本拠も山口でなく萩とさせられるなど苦汁をなめた。

1600(慶長5)年隠居し、毛利秀就の補佐につとめ、家内融和に苦心した。