三好 長慶(みよし・ながよし)

生没年 1523~1564.7.24
名前 千熊丸、孫次郎、利長、範長
官位 修繕大夫、筑前守

父・元長の死亡により10歳で家督を継ぐ。細川晴元と一向一揆の講和をとりもち、木沢長政の斡旋で細川晴元の被官となる。が、5年後細川晴元に挙兵する。その後は木沢長政と戦い、細川氏綱と戦い、遊佐長教と戦い、叔父・三好政長を敗死させ機内を制し入京に成功する。足利義輝と当初戦うも、六角義賢の斡旋でいったんは和睦する。しかし最終的には細川晴元ともども戦って勝ち、摂津芥川城を居城とした畿内支配を確立した。1563年には京都を失ったりもしているが、再び戦いに勝ち盛り返す。このあたりで力が尽きたのか、嫡男義興の死亡、三好義継の猶子迎え入れを行った当たりでやる気はさらに喪失、弟の安宅冬康を誅殺したりしながら最後は病没した。

最後の数年は松永久秀が暗躍していた感もある。下克上の代表的なものとして細川→三好→松永と語られることが多いが、松永久秀と比べるとやむをやまれぬ事情で細川晴元と対峙した感もある。そもそも父・元長細川晴元に利用され殺されているのだ。経済都市・堺と密接な関係を築き、弟たちと一緒に畿内をまとめるまでに勢力拡大した力量は評価されるべきだろう。

なお、御湯殿上日記から、「長慶」のよみは「ながよし」が正しいとされる。でも、なんで三好長慶だけは「ちょうけい」という音読みが比較的後世に残った感がある。