前田 利長(まえだ・としなが)

生没年 1562.1.12~1614.5.20
名前 犬千代、孫四郎、利勝
官位 肥前守、侍従、左近衛権少将、左近衛権中将、参議、権中納言

前田利家の嫡男。母は芳春院まつ。1581(天正9)年信長の四女永姫と結婚。本能寺の変~賤ヶ岳の戦いと激動する時期をと共に従軍した。1598年の隠居で家督を継ぎ、の死によって五大老に列した。

が、家康に利長謀反の動きを指摘されると、利長は母・芳春院を人質に出して疑惑を払拭した。関ヶ原の戦いでは東軍につく。戦後、東軍につかなかった弟・利政の領地も含め119万2700石を領有した。1605(慶長10)年、庶弟の利光(利常)に家督を譲り、自らは越中に移った。富山、次いで一時魚津に居城した後、高岡に築城しそこへ移った。このほか、本多正信次男政重を家老に引き入れるなど、徳川氏との親和を図った。豊臣家へ義理立てすべき自らは引き、しがらみのない利常を当主とすることで前田家を安泰に導いた。

父・利家であれば家康に喧嘩を売られたら買っただろう。が、味方する諸将も多く出て短期決戦は困難な戦となったに違いない。その点、利長と母・芳春院は利家亡き前田家を冷徹に現実的に見ていたと言える。豊臣家防衛を完全に担保出来ない状況においては、まず自ら養う家臣たちを優先したのである。明治維新で活躍することもなく、空襲にあうこともなく、北陸新幹線で賑わう金沢の街を歩くとゆっくりした時が流れており、この利長・芳春院の自然体の生き方が古都金沢には息づいていると言える。