丹羽 長秀(にわ・ながひで)

生没年 1535.7.23~1585.4.16
名前 万千代、五郎左衛門尉、惟住長秀
官位 参議、侍従

丹羽長政の子。信長草創期より部隊指揮官の一人であった。姉川の戦い後佐和山城に入り小谷城を牽制。その後も若狭支配、北陸一向一揆鎮圧、松永久秀征伐、八上城攻略、三木城包囲に転戦している。また、安土城普請の総奉行を務めたことも特筆される。織田家家中では軍務の活躍もさることながら、側近衆では重い政務を重臣として担っていたようだ。

本能寺の変の時は四国長宗我部征伐準備で大坂にいたが、信孝と共に津田信澄自刃に関与、その後山崎の戦いで秀吉と共に光秀を討っている。

清洲会議後、若狭一国と滋賀郡・高島郡を領有、賤ヶ岳の戦いでは海津口を固め勝家の南下を阻止、北ノ庄に攻め込んでいる。戦後、若狭・越前料国に加賀半国を与えられ北ノ庄城に入った。小牧長久手の戦いでは北陸情勢から前田利家と共に一向一揆に備え両国に留まる。その頃から病気がちとなり、1585年死去。病魔に冒され、最後は腹を切っての自殺だったともいう。秀吉は長秀の病状を聞き医師竹田定加を北ノ庄に使わしている。織田家家中に置いては気に懸けてくれる上役であり、清洲会議後は最も重要な味方であった。