豊臣 秀吉(とよとみ・ひでよし)

生没年 1537.2.6~1598.8.18
名前 日吉丸、木下藤吉郎、羽柴秀吉
官位 筑前守、左近衛少将、参議、権大納言、内大臣、関白、太政大臣

日本史史上最大の出世頭。戦国時代の勝者。天下人である。

尾張中村の百姓木下弥右衛門の子。弥右衛門は織田信秀の足軽であったようだ。継父の竹阿弥との折り合いが悪く出奔。蜂須賀小六に厄介になったという伝承の後、遠江の松下加兵衛に世話になったようだ。このときは同輩の妬みから更に出奔、織田信長に仕えることになる。

主君の草履を暖めたり清洲城の割普請をしたり薪奉行で成果を上げたり墨俣に城を築いたりして出世したことに『甫庵太閤記』は伝えている。実際美濃攻略で調略に勤しみ働いたことは確からしい。その後信長の上洛後は京都で奉行を務める。金ヶ崎の退き口、姉川の戦い後の横山城城番他戦働きを多数こなす。浅井家の滅亡後に旧領を任され、今浜へ居城をおき長浜と改める。織田家宿老の「柴田」「丹羽」から一字ずつ取って姓を「羽柴」としたのもこの頃。

1577(天正5)年以降中国平定に従事、三木城を落とし、弟秀長に但馬を攻略させ、宇喜多直家の調略を行い、鳥取城を落とし活躍する。備中高松城を水攻めにし、信長の出陣を仰いで毛利と最終決戦の段で本能寺の変が発生、信長は横死する。秀吉は毛利と講和し山崎にて明智光秀を破り主君の敵討ちを果たした。

その後清州会議で主導権を取り三法師を後嗣に決定、信長の葬儀を執り行うなど天下を取り仕切り始めるが、秀吉の突出を嫌う柴田勝家織田信孝ラインと戦いになる。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、旧織田家中での覇権を決定する。その後、織田信雄と結んだ徳川家康に小牧・長久手の戦いで苦汁をなめるが外交戦で勝利、最終的には家康の臣従に成功する。秀吉を大勝に四国を平定、佐々成政の越中を平定、島津義久を降伏させ九州を平定する。関白就任により政権の正当性を確保する一方、バテレン追放令、刀狩令、関東奥羽惣無事令を出し統一政権としての内治を進める。1590年北条氏の小田原城を攻め滅ぼし、最終的に会津黒川城で奥州仕置を行い天下統一を実現した。

が、秀吉の野望は留まるところを知らず、唐入り(朝鮮出兵)の実行に至る。朝鮮二王子を捕え京城を落としたものの、戦線は膠着した。後継者と定めた秀次を切腹させざるを得ず、一族を三条川原で処刑し求心力低下の一端となった。明との和議は決裂し、再び出兵するも戦況は芳しくなく、秀吉は死去。

信長までの指出検地と違い、太閤検地は中央権力による統一検地であり、一地一作人の原則による荘園制の否定を実現したことから、学会では秀吉以降が近世として高く評価されている。中世社会の町と村の基礎単位としての公認、度量衡の統一と石高性の採用、町人百姓の土地保有認定や刀狩など広範な政策実施による身分の確定など、日本史上におけるターニングポイントである。が、織田政権なくして豊臣政権がなかったことを考えると、結果でしか評価出来ない史学の限界を感じないこともない。一方で大坂築城や朝鮮出兵まで信長のアイディアを実行したまで、という話も史料的根拠はない。ただ、イメージ的なものでは、毛利・長宗我部・島津・北条の措置からするに信長時代よりは苛烈さは緩和された印象は受ける。天下統一が少しゆるめに行われたことは特筆されても良い。出世譚となって明るく英雄物語が書かれ、近代まで繋がる日本人の心情に合う物語となり、フィクション交えて今に伝わっているというのが相応のところだろう。

 

羽柴秀吉は信長軍団の方面司令軍としては有能であった。だが、期せずして自身が信長のポジションになってしまった後、自らの代わりを務める人間がいなかったのではないか。人は出世するが、出世してしまったあと、自分の出世前のポジションを代わりに勤める人間を育てているか、考えているか、それが問題なのだ。

弟・豊臣秀長前田利家は近い存在かもしれないが、早く亡くなった。この2名は、代わりに天下人を務められるタマだったかは分からない。秀吉自身も信長の下では天下人が務まるだと思われいなかっただろう(思われていたらそれは死を意味する)。

織田信長のポジションを継ぐことが出来る人間がいたことは、織田家にとって日本にとって僥倖であっただろう。一歩間違っていたら戦国逆戻りだったのだから。その意味では家康という次の天下人がいて天下をシステム化出来たのは僥倖だったとも言えるが、権力維持体制を残せなかったのは豊臣家にとって痛かった。石田三成がその装置そのものだったかもしれないが、味方がいなければ装置の体をなしてるとは言えない。なかなかに組織の維持は難しい。