豊臣 秀頼(とよとみ・ひでより)

生没年 1593.8.3~1615.5.8
名前
官位

豊臣秀吉の第二子(第三子とも)。母は淀の方

もう子は生まれないと思われていた矢先の誕生であり、関白を継がせていた秀次との関係が焦点となった。当初は日本を1:4で秀頼と秀次にという話になったり、秀次の娘と婚約をしたりしていたが結局秀次は切腹し秀頼が後継者となる。前田利家を守役とし、秀頼へ忠誠を誓わせる血判起請文・誓書の数々を諸大名に課した。

秀吉死後は遺言により伏見から大坂へ。関ヶ原の戦い後は実質摂津・河内・和泉の65万石となった。が、家康の孫娘千姫と婚約し、官位も進んでいった。1611(慶長16)年、福島正成・加藤清正・浅野幸長の並々ならぬ苦労の結果、二条城にて家康との対面が実現する。俗説では子の対面で秀頼の非凡を見抜いた家康が大阪の役を決意したという。

方広寺鐘銘事件を口実に大坂冬の陣が勃発。いったんは講和するも大坂城の堀は埋められる。夏の陣では秀頼の出陣を浪人衆が求めるも淀殿が認めなかった話が残る。結果、大坂城は落ち豊臣氏は滅亡した。

とりあえず、母親がバカで豊臣家が滅びたという創作ばかりなのであまり救われない。が、親父の残した体制に無理があったというのが率直なところだろう。