豊臣 秀次(ひでつぐ・とよとみ)

生没年 1568~1595
名前 孫七郎、三好孫七郎信恵
官位 右近衛中将、中納言、内大臣、関白、左大臣

父は三好吉房、母は秀吉の実姉とも(日秀)。宮部継潤、次いで三好康長の養子となる。三好康長の茶の湯や連歌の造詣も影響を受けたようである。山崎の合戦、賤ヶ岳の戦い(伊勢戦線)に従軍後、小牧・長久手の戦いで池田恒興建議の三河攻撃の総大将となる。が戦いは見事に敗れ、池田恒興・元助父子や森長可は戦死し、秀吉に叱責される。が、八幡山城を与えられ領土経営に勤しむ。織田信雄の後を受け終わり清洲に入城する。小田原の役では山中城攻めで頑張った。

秀吉の嗣子鶴松死去により、1591(天正19)年関白を譲られる。聚楽第に入り、京都守護に専念する。太閤検地の集大成である全国の石高調査は聚楽第で集約されており、村-郡-国という律令制的行政機構に即して行われたのは特色である。

が、秀頼の誕生と共に秀吉との関係が悪化。謀反の罪で関白を説かれ、高野山へ追いやられる。高野山にて切腹。その後、一族30余人すべて京都三条河原で処刑された。

人呼んで殺生関白、数々の極悪エピソードが残るが、一方で芸能に親しみ経典補修にお金をかけるなど、文化施策の充実が図られていた。……側室の数だけは叔父譲りなのか時代なのか、あんまり擁護出来ないが。

大河ドラマ『真田丸』では関白のプレッシャーから来る鬱病説を取っており、目新しかった。この手の現代ナイズされたストーリーは広く流行っていくことだろう。