鳥居 元忠(とりい・もとただ)

生没年 1539~1600.8.1
名前 彦右衛門尉
官位

家康にとって「じい」と言える今川麾下における岡崎惣奉行であった鳥居忠吉の三男。人質時代の家康に随伴している。長兄忠宗が早世、次兄は出家済みであったことから1570年家督相続する。

1558年三河寺部城攻めにおいて家康とともに初陣。姉川の戦い・三方ヶ原の戦い(負傷して片足を引きずるようになる)・長篠の戦い(武田家の鉄砲で負傷と伝わる)甲斐攻めに従軍。怪我のエピソードが多いが、それだけ実力以上に戦ったと評価出来る。北条氏勝を破った功で甲斐郡内地方の統治を任された。第一次上田城の戦いで真田にやられた一人でもある。小田原の役における岩槻城攻めで功があり、秀吉から感状を賜っている。下総国矢作で4万石。

関ヶ原の戦いの前に上杉景勝討伐の際、家康から伏見城留守居を任される。石田三成は挙兵、4万の軍に囲まれた。12日間1800の兵でよく戦ったが最後は自刃。

家康も鳥居元忠も三成挙兵は予期していなかったという説があるが、少なくとも三成挙兵という局面に際してこれに徹底対抗し徳川幕府の礎たる戦死を遂げたのは事実である。完全に忠義の死である。一方で攻め手の島津義弘の伏見入城の申し出は拒絶している。当然、策略の可能性もあったが、結果として島津は西軍となり、その後幕末倒幕に至ったとも考えられる。ある意味で徳川家の命運を決した決断だったと言えよう。……鳥居父子の莫大な徳川家への忠勤を思えば責めるわけにはいかないだろうが。