津田 信澄(つだ・のぶずみ)

生没年 1558?~1582.6.5
名前 坊丸、七兵衛、信重
官位

織田信行の子。信長には甥にあたる。柴田勝家によって養育された。磯野員昌の養子となる。

信長の側近および遊撃軍団として活躍する。側近としての活躍は、1574年信長茶会での「御通役」、蘭奢待切り取りの奉行、相撲会の奉行、津田宗及訪問の供奉、安土宗論の警護担当など。遊撃軍団としての活躍は越前一向一揆討伐や明智光秀丹波攻めへの加勢、本願寺退城のときの大坂下向。

1576(天正4)年より高島郡での活動が活発化しており、磯野員昌が天正6年出奔しており、高島郡支配は信澄に移っていたようである。

1581(天正9)年の馬揃えでは信忠信雄・信包・信孝につぐ5番目に行進しており、連枝衆の中でも5人は特別扱いだったようである。武田攻めの時は信忠でなく信長について後から出陣した。

信孝を対象とする四国攻めのときは副将となる。が、ここで本能寺の変が発生する。明智光秀は舅であり、なにより謀反を起こした織田信行の子である。織田信孝に疑われ、大坂にて攻められ討ち死に。首級は謀反人として堺で晒された。なお、明智光秀と謀反を協議した節は前後一切無い。