長宗我部 元親(ちょうそかべ・もとちか)

生没年 1538~1599.5.19
名前 弥三郎
官位 宮内少輔、侍従、少将

長宗我部国親の長男。幼少時は姫若子と呼ばれその柔和すぎる性格を皆に心配される。しかし、21歳の遅い初陣で戦功を立て「土佐の出来人」と一気に評判を覆す。国親の死後家督を相続し、吉良氏や安芸氏を従え、家臣に追放された一条兼定の旧領を抑え、土佐を統一する。その後も阿波・南伊予・佐貫に勢力を伸ばす一方、中央で権勢を誇っていた織田信長と通じ、長男・信親の烏帽子親になってもらうなど関係を深めた。

だが、四国における長宗我部氏の伸張をみたか、信長は四国征伐を決意する。そのタイミングで本能寺の変が発生、元親は窮地を逃れた。十河存保を破り勝瑞城を落とし阿波を制覇、十河城を1584(天正12)年落とし讃岐を制覇した。1585(天正13)年には湯築城の河野通直を下し四国を統一したとされる。だが、そのタイミングで秀吉の四国攻めとなり、最終的には土佐一国の安堵となった。

長宗我部氏によって痛恨だったのは、降伏翌年の九州征伐において嫡男・長宗我部信親を失ったことだった。信親と(かつての宿敵)十河存保が意見を合わせて自重を促したものの出陣強行した仙石秀久のもと、戸次川で島津勢に敗れ信親は戦死してしまう。ここから長宗我部氏のすべての歯車が悪化して回り始めた。

後嗣とした四男長宗我部盛親。家中の反対がおき、吉良親実・比江山親興は切腹させられる。最後は三男親忠を幽閉する。伏見で死去。

土佐の英雄は坂本龍馬と長宗我部元親。高知県では英雄である。久武・桑名・中内の3家臣を中心とした施政方針の徹底、各地域に奉行をおいての監督制度の整備、一領具足の家中への組み込みなど長宗我部家中は上手く回っていた。仏教・儒学・和歌・連歌・茶道に通ずる文化人でもあった。