武田 勝頼(たけだ・かつより)

生没年 1546~1582.3.11
名前 四郎
官位 大膳大夫

武田信玄の四男。母は諏訪頼重の娘。1862年、諏訪氏の名跡をつぎ、伊奈郡郡代として高遠城に入る。織田信長の養女と結婚したのは1565(永禄8)年である。義信死後、信勝が武田家次期当主とされ、勝頼はその後見として事実上の家督監督者となる。

信玄の死は3年隠すことが遺言となっていたが、その間も出兵は繰り返していた。長篠城を奪還せんと出陣したが、設楽が原の戦い(長篠の戦い)で多くの宿老を失う大敗を喫した。上杉謙信の死後の御館の乱では、北条家出身の景虎から景勝へと支持を切り替える。景勝との同盟は成立したが、北条家との関係は断絶した。北条・徳川の挟撃を見据え新府に城を築きだすが、着手した1582年に織田軍の甲州侵攻を招く。織田方につく諸将が続出し、最後は小山田信茂にも裏切られ田野の地で自刃した。