伊達 輝宗(だて・てるむね)

生没年 1544~1585
名前 彦太郎、総次郎
官位 従四位下左京大夫

伊達晴宗と岩城重隆娘の間の二男。兄親隆は母・久保姫の生家岩城家を相続している。輿入れ時の約定とされる(『奥羽永慶軍記』)。1555年足利義輝から一字を受け輝宗と名乗る。22歳で家督を相続した輝宗は、相馬氏との抗争による丸森の回復、織田家とよしみを通じるなど精力的に活動している。1570年、中野宗時・牧野宗仲父子が謀反を起こすもこれを鎮圧。中野旧臣の遠藤基信、鬼庭良直に支えられ治世をまっとうする。

最上義守の娘である義姫との間に生まれた梵天丸に目をかけ、早期に家督を相続する。しかし、結果として輝宗時代と政宗時代の政策は異なるものとなり、蘆名家との対立を始め周辺諸将との緊張状態が発生する。そんな中、政宗への臣従を斡旋した二本松義継に拉致誘拐され、結局は義継共々命を落とすことになる。

天文伊達の乱の最大の被害者であると同時に、伊達政宗を輩出した最大の功労者であると言える。しかし、政宗との政策の差は明らかだったのも確か。そんななかでも当主を譲った政宗を立て結果としてそのために命を落とすことになる。最後は諸説有り、観念した義継と差し違えただとか、追ってきた伊達勢に射撃を命じただとか、はたまた実は対立する政宗による発砲とまで幅広い。