伊達 政宗(だて・まさむね)

生没年 1567.8.3~1636.5.24
名前 彦太郎、総次郎、貞山禅利
官位 従五位下美作守、侍従、越中守、従四位下右近衛少将、陸奥守、正四位下参議、従三位権中納言

奥州の独眼竜の異名を持つ戦国大名。父は伊達輝宗、母は最上義守の娘・義姫。幼少時に片目を失明。独眼竜のあだ名の由来ともなったその失明は生涯のコンプレックスだったという。片倉景綱・伊達成実といった有力な側臣とともに虎哉宗乙の元学ぶ。

11歳で元服、13歳で田村清顕の娘・愛姫と結婚、18歳にして家督相続。が、その翌年には畠山義継の陰謀により父・輝宗を失うことになる。若さで力有り余る政宗は精力的に合戦を展開、人取橋の戦いでは伊達側の将を失いながらも優位を決め、勢力を拡大、摺上原で蘆名義広を撃破する。相馬勢力を抑え、白川義親・石川昭光といった各省を服属させ、黒川城に入る。本領の伊達郡・信夫郡から米沢のある置賜郡に加え、江戸時代の伊達藩領となる岩手県域・宮城県域から福島県中通りの大半までを軍事指揮下に治める。

まさに東北の英雄に名乗りを上げたのだが、時代は豊臣秀吉による小田原征伐を迎えていた。父・伊達輝宗は関東に上方勢が攻めてきたときには奥羽の諸将を結合しこれに抗う構想を持っていたようである。中央勢力に従っても命の保証が無い経験知があったのかもしれない。家中議論するが、結局は小田原に参陣することを決める。この年に弟・伊達小次郎を斬っている。母・義姫は最上家に戻ることになる。

ギリギリのところで大名となった伊達政宗は、奥州惣無事令違反で会津を没収される。その後発生した大崎・葛西一揆では加担を疑われるが、花押の穴の有り無しで言い逃れに成功し、伊達本領没収のかわりに旧木村吉清領を与えられて済む。政略結婚により徳川家康に接近、長女・五郎八姫と松平忠輝の婚約を進める。そこで関ヶ原の戦いを迎え、百万石のお墨付きのもと東軍で戦うが、内実は南部領の和賀一揆を扇動したことが家康にばれており事実上反故にされる。その後は支倉常長をイスパニアに派遣するなど、遅れてきた戦国大名らしい動きも見せるが、大坂の陣や家康の死を迎えてもなお徳川体制下で大名を全うすることとなった。伊達家は常陸や近江で飛び地の所領を賜る一方、庶子となった伊達秀宗は宇和島で十万石の大名となる。奥羽の旧戦国大名・国人を家中には数多く抱えており、大身家臣が知行地の城館に居住し定期的に仙台へ参勤する伊達家独特の体制が残った。奥羽の国人が集まったのは奥州王家、奥羽探題家としての矜恃と言えるが、その体制は近世にしては相対的に旧態依然とした中世同様のものであった。一方で、各所領で個性ある人材を生み出すことにも繋がり、宮城県のみならず近代岩手県県南では南部藩出身を補う奇人変人の頭脳集団を生み出すことになる。

大名としては仙台城下町の建設に力を注いだ。北上川の水運目的で改修工事を行い石巻を江戸廻米の集積拠点にする一、方国分寺薬師堂・大崎八幡神社・奥羽一宮塩竈神社・松島五大堂および瑞巌寺など再興造営も推進した。和歌・茶道・能楽から料理まで、幅広い趣味の傍ら、戦国を知る古老として徳川家光らに頼りにされる。江戸桜田邸で死去。