伊達 晴宗(だて・はるむね)

生没年 1519~1577.12.5
名前 次郎
官位 左京大夫

伊達稙宗と蘆名盛高娘の間に生まれる。1533年足利義晴から一字を受け晴宗と名乗る。1542(天文11)年、伊達稙宗を幽閉し6年にわたる天文の乱が勃発する。相馬氏・田村氏・二階堂氏・蘆名氏・二本松畠山氏・石橋氏・懸田氏が稙宗方につき、晴宗側には岳父の岩城氏・本宮氏がつくが、次第に晴宗方に転じるものが増えていった。

足利義輝の仲介によって和解が成り、家督相続した晴宗は知行判物の再交付を行い、知行再確認を行う。米沢に本拠を移し、大崎氏に変わって奥羽探題にも任じられ、傷ついた家中の立て直しに励んだ。しかし、天文の乱で項のあった中野宗時・牧野久仲父子の権勢が日に日に増していくこととなる。これは、中野氏ら天文の乱で功のあった7名の家臣に守護不入(警察犬不介入、諸税免除)の特権を与えたことに起因している。懸田氏を討伐するなど努力するも、晴宗重臣たちの専横から子息・輝宗との対立もあわせて進行していくことになる。1564年隠居するも最後まで伊達家中は不穏なままだった。

天文の乱により、伊達家中の体制は後退し、結局は江戸時代においても旧態依然とした中世要素ある体制が伊達家中においては続くことになる。結局はそれが遠因で幕末伊達藩は雄藩としての主体的行動が取れなかったわけで、東北の命運を決した騒動だったと言えよう。