千利休(せんのりきゅう)

生没年 1522~1591.2.28
名前 与四郎、千宗易、抛筌斎(ほうせんさい)
官位

堺の納屋衆千与兵衛の子。北向道陳、ついで武野紹鴎に茶を師事する。堺の茶人のならわしに従い、大徳寺派の大林宗套に就いて受戒し「宗易」という法諱を授かる。

堺・京都・奈良の町衆から三好三人衆・松永久秀らの畿内大名に広がりを見せていた茶の湯だが、織田信長の上洛後興隆に拍車がかかった。今井宗久・津田宗及とあわせ茶頭となる。1573年頃のこととされる。2人の先輩を超え天下一の茶匠となったのは豊臣秀吉の天下獲りの段階においてである。1585(天正13)年の正親町天皇へ献茶、1587(天正15)年の北野の大茶会は特に名高い。政治的立場も豊臣経験では強力で、豊臣秀長が大友宗麟に言った「内々の儀は宗易、公議のことは秀長に」という言葉に代表される。が、1591年秀吉から堺での謹慎命令が下り、のちに京都へ護送。2月28になり切腹を遂げた。利休の首は獄門にかけられた。わざわざ命令もされていないのに切腹した理由は不明だが、利休の罪状は「大徳寺山門に自らの木造を祀った、秀吉にその下を歩かせた」「茶器売買で不当利益を得た」となっている。他の切腹要因として、娘で後家になったお吟を秀吉の側室にすることを拒否した、秀長死後の石田三成との政治的対立による讒言なども理由として挙げられている。……三成さん、またあなたですか。

千利休は武野紹鴎由来の佗び茶において型を作り大成させた。茶の湯の席をアジールのように平素の身分差を取り払い主人と客の礼のみにリセットする等など、革新を進めた。現代においても茶の湯が千利休由来の事項が多いことからすると偉大な存在である。一方で、黄金の茶室など、秀吉秀吉で己の茶の湯を確立していたのだ。これは武士の間でも突出した事象で、信長以下武士の多くは堺の茶の湯の系譜をひいていたのに対し、秀吉が突出してオリジナリティを発揮している。この点で対立して切腹したということはないだろうが、時代の最高権力者と文化の頂点者の確立したものが対立した内容だったのは極めて皮肉なことである。