清水 宗治(しむず・むねはる)

生没年 1537~1582
名前 才太郎、長左衛門
官位

備中高松城主・石川久孝の娘を娶り、久孝死後城主となった。毛利家備中進出後は小早川隆景に従い、備中奥郡の説得に当たる。

織田方の手が備中に迫り、宗治の下にも備中・備後2カ国与えるから織田方に付けとの誘いの書状が来るも、宗治は律儀に毛利氏にその書状を渡して二心無きを伝えた。備中高松城は周囲が沼地の名城だったが、黒田官兵衛の水攻め発案を秀吉は実行し、備中高松城は水で包囲された。信長襲来前のド派手なデモンストレーションだったが、安国寺恵瓊ら毛利首脳はこの状況を見て織田家への譲歩を加速した。毛利家としては清水宗治の助命は譲れない一線だったが交渉は難航。これを知った清水宗治は進んで自らの命を捨てる旨を安国寺恵瓊に伝えた。結果清水宗治は人工湖上で城兵の命と引き換えに切腹した。

これが本能寺の変で信長の死を隠した交渉だったことが問題とされたが、隆景は不問として秀吉軍の追撃をせず、これが毛利家にとって多大な益となった。 清水宗治の死は毛利家存続に大きく貢献した上に、後の天下人のターニングポイントを飾ることになり、時代劇における1シーンとなり400年後でもなお語り継がれている。清水宗治の家系は毛利家においても重きをなし幕末へ続いた。