柴田 勝家(しばた・かついえ)

生没年 ?~1583.4.24
名前 権六、修理亮
官位

織田信行の付け家老で稲生合戦でも信長と戦う。が敗れて信長に忠誠を誓い、信行が再度謀反したときはこれを信長に注進している。

その後は信長配下で活躍。1570年六角勢に長光寺城を囲まれ水の手を切られたときに、城兵に水を飲ませた後水瓶をたたき割り敵中に突撃した「甕割り柴田」の逸話は有名。その後も各地を転戦し、伊勢一向一揆攻めでは負傷もしている。

その後、越前の丹羽・吉田・坂井・足羽の4郡を任され、前田利家佐々成政らを与力に付けられる。このとき、検地を行い一揆に加わった門徒農民から武器を没収する、刀狩りの先駆施策を行っていることが特筆される。その後、加賀一向一揆と戦い、上杉氏と対峙した。

本能寺の変後、山崎の戦いのように光秀討伐を行うことが出来なかった。清州会議でも秀吉の旧領北近江を得るに留まった。勝家は平和裏に織田家存続を願っていたようだが、秀吉の台頭に危機感を覚えた織田信孝の影響もあり、秀吉との関係は9月~10月で一気に悪化した。秀吉と決戦することとなり、佐久間盛政の突出もあり賤ヶ岳の戦いは敗れ、越前北ノ庄にて妻となったお市の方と自害した。

賤ヶ岳合戦記の逸話によると、勝家は途中前田利家のいる府中城に立ち寄り、長年の友誼に感謝し、秀吉への投降を進めたという。秀吉もののあらゆる物語では嫌な奴に書かれているが、後の天下人の壁となるべき目標たる地位に織田家中で存在することが出来るのは、一つの才能である。