里見 義堯(さとみ・よしたか)

生没年 1507~1574.6.1
名前 権七郎
官位

父・実堯を甥・義豊に討たれたため、上総百首城に逃れる。北条氏綱の助力を得て安房犬掛の戦いで里見義豊を討ち安房国内統一と里見家宗主権獲得を実現した。当初はその経緯から北条氏綱に従っていたが、小弓公方足利義明に尽力することとなり、国府台の戦いで北条と決戦するも足利義明の突出もあり敗れた。しかし小弓公方の勢力が衰えたこともあり、上総におけるフリーハンドを得ることが出来、上総武田氏の内乱に乗じ勢力を拡大することになる。居城を上総久留里城に移し、正木時茂・時忠兄弟に大多喜城・勝浦城を確保させ、嫡男義弘を佐貫城に置き水軍で三浦半島を伺わせた。北条氏により領内攪乱を受けたものの、関東管領となった正義の味方・上杉謙信が関東にやってくるようになり、嫡男義弘を小田原に参陣させたりしている。第二次国府台の戦いで再び北条に敗れたものの、その後三船山の戦いに勝利し、北条方の下総の千葉氏を圧迫、房総における優勢を修し保ち続けた。

小弓公方・古河公方に頼られればNOと言わない、頼りになる必殺仕事人。ふなっしーと並ぶ千葉県の英雄と言って良いだろう。知名度がなぜか低いのと、信長の野望で弱小大名扱いされていた風評被害に苦しむが、千葉県のイメージを間違いなく向上させてくれる郷土の偉人である。