佐竹 義宣(さたけ・よしのぶ)

生没年 1570~1633.1.25
名前 徳寿丸、次郎
官位 右京大夫、左近衛中将

佐竹義重の子。母は伊達晴宗の娘で、政宗とは従兄弟になる。

1589(天正17)年家督相続。摺上原の戦いで実弟蘆名義広の蘆名家が滅亡する苦しい情勢にあり、赤館城で伊達家の攻勢をしのいだ。一方で常陸では江戸氏・大掾氏への対応がポイントであったが、調停を無視した大掾氏を攻撃している。そんななか小田原の役があり、佐竹家は早くより秀吉に服属し所領安堵されている。

ここで国内統一を進めることとなり、1590(天正18)年まず「一家同位」の割に勢力を喰われてきた江戸重通を急襲し追っている。次に府中城の大掾清幹を襲い滅亡させ、最後に鹿島郡・行方郡の大掾氏系国衆を饗応の名目で太田城に招き15名一気に殺している。これらの施策により国内統一に成功した。江戸氏居城の水戸城に入城し、領国支配の拠点としている。

豊臣政権下では葛西・大崎一揆鎮圧の軍役、朝鮮出兵の軍役など、「際限もなき軍役」を強いられていた。一方で太閤検地実施など、近世大名化の実現が図られている。このあたりはお仲良しの石田三成との連携に拠るところが大きく、佐竹家の支配体制確立は三成の尽力あってのものと評価されるだろう。

関ヶ原の戦いでは中立のふりして西軍よりであり、結果出羽・秋田の地へ転封となる。当初土崎、次いで久保田の地を居城とし、久保田藩初代藩主として基礎固めを行った。