真田 昌幸(さなだ・まさゆき)

生没年 1547~1611(1609).6.4
名前 源五郎、喜兵衛、武藤喜兵衛
官位 安房守

真田幸隆の三男。7歳の時甲斐在府となる。人質の意味合いもあり、幸隆はこの頃上田付近に領地を与えられている。信玄は利発な昌幸を評価し、小姓として重用、甲斐の名門武藤家を継がせる。旗本として武田家中で重きをなすようになる。

が、長篠の戦いで2名の兄真田信綱・昌輝が戦死、昌幸が真田家、岩櫃城代を継ぐことになる。1580年には沼田城を奪取、勢力拡大を実現していた。甲斐新府城の作事奉行も務めた。1582年の織田信長侵攻においては武田勝頼に岩櫃城への退去を進言するも、小山田信茂の進言で岩殿山城に向かうことになる。結局小山田信茂の裏切りで武田勝頼は天目山で敗れ自刃する。

織田家の武田残党狩りは激しかったが、真田家はどさくさに紛れ滝川一益に服属。が、ここで本能寺の変が発生、徳川家康北条氏政の勢力争いに巻き込まれる。当初徳川に付いたが上野域の北条への割譲命令に反発、上杉に付く。第一次上田城の戦いを招いたが、徳川を撃退。上杉の関係から豊臣につき臣従する。上野の真田領はその後も問題となり、1589(天正17)年沼田城を北条に渡すことになるも、利根川以西は引き続き真田領となった。名胡桃城を落とされ、これが小田原の役を巻き起こした。真田昌幸は戦国時代を終結させる合戦の引き金となったのであった。小田原の役後は沼田を回復し、長男・信幸へ沼田領を任せた。豊臣秀吉に「表裏比興の者」(老獪、信用ならない)と言われているが、武田滅亡後巧みに生き残ったと言える。

関ヶ原の戦いにおいては、本多忠勝の婿である長男・真田信幸と袂を分かち、次男・真田信繁と西軍についた。上田城で徳川秀忠の3万8千の大軍を2000の兵で惹き付け、関ヶ原本戦に間に合わせない活躍を見せた。が、東軍が勝利し、信幸必死の助命嘆願で信繁ともども高野山蟄居となった。紀州九度山で死去。

2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』で草刈正雄の好演もあり、真田幸村以上に人気が増したと言える。数々の名言・ぶっちゃけた予言でお茶の間を愉しませたが、やはり武将としての能力の高さが素晴らしいことに尽きる。名を残した真田幸村も、家を残した真田信之も、この父無くして存在し得なかったのである。