斎藤 龍興(さいとう・たつおき)

生没年 1548~
名前 喜太郎、右兵衛大夫
官位

1561年家督を継ぐ。家督次いで早々信長に攻め込まれるがこれは撃退した。が、あまりにしつこい織田信長の美濃侵攻への対応に追われる。長井道利・武井夕庵の両輪で龍興を支えたが、斎藤飛騨守重用が安藤守就・竹中重治の反発を招き稲葉山城占拠事件が1564(永禄7)年2月に起こったりもしている。最終的には美濃三人衆の内通もあり、1567(永禄10)年織田信長により稲葉山城は落ち伊勢長島へ逃れた。その後は三好三人衆や一向一揆、浅井氏・朝倉氏を頼る。信長の越前侵攻前の刀禰坂の戦いで戦死、朝倉滅亡に殉じる形となった。