斎藤 道三(さいとう・どうさん)

生没年 ?~1556.4.20
名前 長井新九郎規秀、斎藤新九郎利政
官位 左近太夫

近年、1560年に六角義賢が平井貞武・蒲生定秀に宛てた書状が発見され、長井新左衛門尉と斎藤道三の2代にわたる国盗りが判明した。妙覚寺の僧から身を起こし、松波庄五郎(庄九郎)を名乗り、油商人となって日運上人の推挙で長井長弘に仕える。西村勘九郎正利を名乗って武芸と才気で頼芸に仕え、長井長弘と一緒に美濃守護土岐頼武にクーデターを起こし、弟の土岐頼芸を擁立。その後長井長弘を殺害し長井家を乗っ取った…のが斎藤道三利政の父の所業とされている。

道三自身も妙覚寺で修行していたとき記録がある。父の死去後、長井新九郎規秀として史料に登場する。守護代斎藤利茂が土岐頼芸から離れており、これに誓詞を出させて傘下とし、その養子となり斎藤姓を名乗っている。その後1542(天文11)年大桑城に土岐頼芸を攻め、頼芸は織田信秀、次いで朝倉孝景を頼って美濃から落ちている。1549(天文18)年織田信秀の美濃侵略には手を焼いたが、娘帰蝶(濃姫)を織田信秀の嫡男・信長に嫁がせることで和睦を果たした。1552(天文21)年、六角定頼死去を待って土岐頼芸をあらためて国外追放している。

1554(天文23)年、嫡男斎藤義龍井ノ口城を占拠、長良川の戦いで斎藤道三は敗れ、旧家臣の小牧源太に討ち取られた。