小西 行長(こにし・ゆきなが)

生没年 ?~1600.10.1
名前 弥九郎、ドン=アグスチン
官位 摂津守

和泉堺の薬屋の子と言われる。が、堺で著名な小西家との関係は確実なものではない。一方で父・小西隆佐は信長の知遇も得ており、商人由来で武家に近づいたことは確かそうだ。当初宇喜多直家に仕えており、中国攻めで宇喜多家が織田方となったことから秀吉に重用される。小豆島の管理を任せられ、舟奉行となる。その後肥後一国を加藤清正と分け合う。宇土に入り、朝鮮出兵では一番隊を務める。宗義智と語らい、明の沈惟敬とも語らい、講和路線を進める。これは日明両国の政庁を欺いてでも講和に持ち込もうというものである。が、明国使節の秀吉謁見で講和内容の破綻がバレ朝鮮再出兵が決まる。なお、このときあろうことか天下人を欺いた小西行長は失脚していない。(沈惟敬は処刑されている)

秀吉吉の死後、石田三成と共同歩調を取る。関ヶ原の戦いでは西軍に突き破れて捕らえられる。京都六条河原ではキリシタンの教義から自刃せず純粋斬首を選んだ。