加藤 清正(かとう・きよまさ)

生没年 1562~1611
名前 夜叉丸、虎之助
官位 主計頭、侍従、肥後守

秀吉のまたいとこ(母が秀吉の生母の伯母にあたる)。幼少から秀吉に仕え、鳥取城攻め、備中冠山城攻めで功績があった。賤ヶ岳七本槍の一人。小牧・長久手の戦いで活躍したのちは兵糧方を務め、和泉堺の豊臣蔵入地の代官を務めている。佐々成政の肥後失政の後、小西行長と肥後を半国ずつ分け合うことになり熊本に入る。検地と新知充行方式を採り国人・土豪勢力の一掃を進めた。郷村制をしき、固定した奉行職を設けず寄せ集め家臣団の統制に腐心した。肥後中を馬で駆けずり回ったという逸話も残る。

朝鮮出兵では二王子を捕らえるなど大きな活躍を見せる。が、小西行長らの講和路線からは煙たく見られ、連携した石田三成の讒言により伏見蟄居となる。三成さん、またあなたですか……慶長の大地震のとき真っ先に秀吉の元に駆けつけた「地震加藤」のエピソードは有名で、それが元で蟄居解除となったとされる。これは家康利家の取りなしがあったと考えられる。

慶長の役でも活躍し、蔚山城の戦いでは瀕死寸前まで追い込まれながら九死に一生を得る。帰国後、博多で出迎えた石田三成が茶の湯に誘ったが稗粥でも馳走しようかと返した逸話も有名だ。それ以降、三成追い落としを幾度と行い、最後は福島正則ら7将で失脚させることに成功した。が、伊集院忠棟をめぐる対応で五大老として対応していた家康の意と反する対応に取り、肥後に退去することとなった。が、清正は東軍につき、宇土城を攻め、柳河城を囲い九州戦線で活躍した。戦後、肥後一国を与えられ、島津対応を念頭に熊本城の大改修を行う。じつは秀頼を迎え入れ籠城するためだったとも言われるが、熊本城は築城300年後本当に薩摩の大軍を西南戦争で迎え撃ち撃退することとなる。

福島正則・浅野幸長らと豊臣秀頼徳川家康二条城会談に奔走。実現を見届けて病死した。毒殺説もささやかれる。

「肥後もっこす」とまで呼ばれる、いちいちが面倒くさい頑固で議論好きな肥後の武人が後にも先にも心酔した唯一の存在、それが加藤清正である。のちに加藤家の跡を受けて熊本に入ることになった細川家も全面的に加藤清正の威光を利用している。東京の白金高輪駅は東京地下鉄南北線開通前の仮称においては市電時代の電停名に由来する清正公前だったことも特筆される。熊本藩中屋敷跡の最正山覚林寺に由来している。