大内 義興(おおうち・よしおき)

生没年 1477~1528.12.20
名前 亀童丸、六郎
官位 周防権介、左京大夫

大内政弘の長男。父の病により家督を相続するが、相続に当たっては宿老・杉武明に弟・尊光を擁立する動きがあり、義興は杉武明を誅している(尊光は還俗し高弘と称し豊後へ)。

1500年、足利義稙が義興を頼って山口へ落ちてくる。1508年義興は義稙を奉じて上洛する。足利義澄細川澄元は近江へ逃れた。大内氏は管領になれないため管領代として山城国守護も兼ねて幕政に当たる。1511年には細川澄元の巻き返しもあり丹波に逃れたりもしたが、船岡山の戦いに勝利し京都における優位を確定させた。在京10年、京都の治安は安定したが山陰では尼子氏の勢力が増し、安芸は諸将が多く尼子氏になびいている情況だった。1518(永正15)年周防へ戻り、1521年からは安芸で行動し毛利元就を味方に付け小康を得た。安芸での戦陣にて病を得て死去。

大内氏は重臣を各国の守護代に任じ、山口に居を設けさせていた。一方で国衙領の保全に関しては空手形に近い書状を送るなど侵犯を犯し守護大名らしからぬ側面もあった。周防の陶氏、豊前の杉氏、長門の内藤氏など国主大名の性格を帯びがちな守護代の統率に苦心しながらもバランスの結果政情は安定していた。山口は文化都市として繁栄を見せていた。戦国時代に上洛を成し遂げた数少ない武将である。